科研費が不採択で見えた「同塵」の重要さ

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科研費がダメだった今年は,どういうわけか研究以外の仕事が例年よりたくさん入って来る.その中には地元市役所や小中高校からの依頼もある.主に講演や市民講座,理科教室のようなものだ.こういう仕事は研究職の人がよく「雑用」と言ってる類の仕事だ.

だけど,いくつかやってみて思ったのは,こういう仕事を通した地域貢献があってこそ,自分が普段やっている研究にも大きな意義を見出せるんだろうと思うようになった.

ノーベル賞級の研究なら別だが

ノーベル賞級の研究や,数千万,数億の売り上げに貢献するような研究をしている人なら,研究だけ専属的にやって他の仕事は一切やらないというのもありだと思う.研究成果が直接社会に貢献する度合が極めて高いので,他のことをやっている時間がもったいないからである.だけど,私のようないわば「五流」の研究者だと,自分の研究成果が果たしてどれだけ世間様の役に立っているのか?と問われると,ゼロではないけどなかなか厳しいものがある.

そんな私でも,研究によって得た専門知識や新たな知見はもちろんある.それを講演会とか理科教室とかそういう形で一般の人に還元することはできる.私のような立場だと,純粋に研究成果だけで貢献するより,そちらの方が社会に対する貢献度が高いのは明らかだ.

そのことに気づいた時,ふと思い出したのが「和光同塵」という老子の言葉である.

研究活動は『和光同塵』にあらず

「和光同塵」の意味は,自分の才覚を見せることなく自己主張を控え俗世間と交わること,くらいの意味だろうか.研究活動のメインは論文執筆や学会発表となるわけだが,論文の主張や研究の発表というものは,ぶっちゃけて言えば

「誰々はこんな研究をしてきたけど,それに比べて自分はこんな凄いことをしたんだぞ」

という他者との比較の上に立った自己主張がベースとなる.もちろん,こんなケンカ腰な言い方はしないけど(笑)ロジックは変わらない.逆にいえば,そういう要素がなければ相手は価値を理解できないので,誰も耳を貸してはくれない.

その意味では,研究活動というのは「和光」という自己主張を控えよという考えとはかなり遠くにある行動だと思う.

また,研究などという仕事をしていると,どうしても世間から隔絶された世界で暮らすことになる.いつも向き合っているのは,限られた人数の同僚,パソコン,論文,実験機器くらい.そして学会やシンポジウムで同業者と年に数回会うくらい.店,役所,病院のように,毎日毎日違う人と接する仕事ではない.

そう考えると,研究職の環境は「同塵」とは遠い環境にあるのかもしれない.

科研費が不採択で見えた「同塵」の重要さ

おそらく,今年の科研費が採択されていれば,大変失礼な話だが地元市役所の依頼などめんどくさい余計な雑用という感覚で適当にこなしていたと思うし,そこに意義を見出すような心のゆとりもなかっただろう.

極論を言えば,大多数の研究者は世間様のための研究ではなく「自分のための研究」をやっている.

「自分はそんなことない.自分の研究は学問の発展に十分寄与しており,世間様の役に立っている」

と断言できる方はそれで良い.だけど,自分だけその「つもり」になっている可能性だってある.少なくとも私は断言できるレベルにない.その証拠に私が研究をやめたところで学問の発展が遅れる可能性はほとんどないからだ.

大多数の研究者が本当に必要なのは,研究の成果そのものではなく,昇進,昇給,査定など「自分のため」に履歴書の業績欄を1行増やすことである.

和光同塵とは,世俗に交わるという意味だが,そのことによって初めて見えてくる世界がある.学会やシンポジウムなどは自分自身を成長させるには必須の場だが,世俗とほぼ遠い世界.世俗に入らないとわからないことが多い.

「隠遁」と同義ではない

自分の専門性や知見を一般市民や子供達に楽しんでもらえるように取りまとめて面白おかしく還元することで,一般市民にもサイエンスに対する理解が深まり,その子供達への影響も大きくなる.それにより子供達の将来によい影響を与えるかもしれない.

私の場合,間接的ではあるけど,こういう方が研究成果そのものより遥かに世間様への貢献度が高いのだろうと思った.老子を人生哲学などと自分で言っておきながら,言葉尻の知識だけでなく初めてその意味を自分の日常の中で発見したような気がする.

このような事を書くと,隠遁生活に入ったダメ研究者というレッテルを貼られるのがこの世界の常だが,研究をしないという意味ではない.「和光同塵」は「隠遁」と同義ではない.

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